美しい日本語・文章とは

                    1996.2


小学生の時から作文が楽しくて楽しくてたまらなっかった、という人は幸せです。
原稿用紙の前に座るだけでわくわくしちゃう、とは、なかなかいきません。
それでも、おとなになると、それなりに何かを書かなくてはならないことも増え、
季節の挨拶・お礼状など、先生に提出するのとは違った難しさの文章が必要になって
きます。それぞれの用途に合わせた文例集が市販されていて、適当に利用すれば
何とかなるのですが、ちょっと待て、きちんとした手紙の書き方を習ったことって
あるでしょうか?格式張った手紙の文例には、日頃使わず意味もよくわからない
言葉がたくさん並んでいます。そもそも私たちは、日本語の成り立ち・美しさに
ついて考えることなく、おとなになってしまったように思えます。
お正月に放映されたドラマ「小石川の家」を見て興味を持ち、幸田文の
「父・こんなこと」を読んでみました。まずはっとさせられたのは、その文章の流麗さ
でした。身の回りの細々したことをさらりと書き留めるその日本語のしなやかさが、
今の子どもたちに受け継がれていくどころか、私たちの世代でさえ近代の日本語の
名文に接するチャンスが少なくなっていく一方のようです。
フランスでは、名文と呼ばれる文章を、小学生のころから暗記して朗読し、
意味が完全にわからなくても、その文体の美しさ・リズムを体にたたき込むのだ
そうです。ポール・エリュアールという詩人の(第2次大戦中の、対ナチス・
レジスタンスである)代表作「リベルテ(自由)」を強制的に覚えさせられて、
これでは詩のメッセージにそぐわない、と憤慨している話を読んだことがありますが、
子どもだからこの程度の文章で、と妥協せずに、母国語の伝統を初等教育から
重視する姿勢には、学ぶものがあるように思えます。フランスの新聞には
「人生相談」はないけれど「文章(国語)相談」のコーナーがあると聞いたことも
あります。「文は人を表す」という発想から、正しいだけでなく質の高い表現が
求められているのです。
振り返って日本では、「国語教育」の中で、「正しい表現」とその読みとりに
重点が置かれていて、文体の追求・先達の名文を味わう、といった内容までは
なかなか辿り着きません。いわゆる翻訳文体の増加で、日本語としての美しさの
基準も移り変わってきているのでしょうが、古典文学を外国語のように、
意味をひもときながら学ぶ授業はあっても、明治以降の「文語」を身近なものとして
楽しむ機会はどんどん減ってきています。若い世代の加速度的な日本語の変化
(乱れ?)も、そもそも規範とする日本語のありようをおとなが示していないからでは
ないでしょうか?言葉は生きているとはいえ、かつて(といっても、つい最近まで)の
日本語が蓄えていた表現の豊潤な奥深さを、伝えもせずに放棄して、新しいものに
置き換えていくのは大変寂しく思います。受け継がれた日本語に、現代の生活に
適合した表現を重ね、より豊かにしていく努力をやめたくないものです。
というわけで、つたない文章ですがカタカナは極力使わない、また、うっとりと
文豪の作品に親しむ(これはぜいたくな)時間を、たとえお鍋片手にでも
失わないようにしよう、という決意を新たにしたのでした。
名エッセイへの道のりは遠いけれど、長い文章を最後まで読んでいただいて、
本当にありがとうございました。

              事後報告        2002.10.23

自分の文章・自分の子どもの文章に、意気消沈することもしばしばです。
でも、思ったことをそのまま口頭で伝えるのでなく、書いてみると、
内容を客観的に見て、今一度整理する余裕が生まれます。
そして、その文章を、他の人が読んだときどういうふうに
受け止めるか、という想像力も必要。
名文への道は険しい。


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