知る権利・知らない勇気

                  1999年6月

世間を騒がせる大事件が起こるたびに、新聞・テレビが一斉に集中取材をかけます。
「そんなむごい殺人を起こしたのはどんな人?」脳死で臓器を提供した人の家族の
心境は?」誰でも知りたいことから、知って「ふ〜ん」と思うことまで、
かゆいところに手の届く、いえいえ、傷ができるまでえぐっていく勢いです。
以前は、そういった内容はワイドショーや芸能紙に限られていたように思いますが、
最近ではNHKや民放のニュース・大新聞でも、けっこう細かいことまで
取材しているような気がします。
しばらく前、小学生を殺した少年が写真週刊誌に載りました。「社会性があるから
掲載する」「少年法の精神に反する」と、意見が真っ向から分かれましたが、
みなさんはご覧になりましたか?
私は、やはり見ませんでした。どんな顔の少年がこんなひどい事件を起こすのか、
見てみたい気持ちもゼロではありませんでしたが、「見たい」「見ることが
できる」と、「見てもよい」とはちょっと違うと考えて、「見ないことに決め」
ました。私に何の関わりもないことがらについて、必要以上のところまで
知ろうとするのが、何となくさもしいことのような気がしたのも事実です。
事件の被害者であれ加害者であれ、自分だったら踏み込まれたくないなあ、
と思うことまで取材すること、それをおもしろおかしく見せるニュースを、
単なる野次馬根性で見続けること。どこかで人間の(相手の、そして自分自身の)
尊厳を損なっていくようで、私はあまり好きになれません。マスコミも、
それが売れるから取材し続けるのでしょうが、「知る権利」はもっと重要な場面で
行使されるべきだと思います。「毒入りカレー事件」の記事にしても、
容疑者が有罪なのか無罪なのかとは無関係な、その性格や生活ぶりを書き立てることで、
かえって説得性が失われていくような気がするのは私だけでしょうか?
自分を育てていくための「知りたい気持ち」は、いくつになっても失いたくない
大切な好奇心です。世の中の不正や犯罪を徹底的に追及することも大事でしょう。
でも一方で、のぞき趣味的な「知りたい」気持ちを、自分の中から排除する勇気も
必要だと思います。他人が踏み込むべきでない、私的な部分をお互いに尊重して
いくために、「知らない」部分を残す意志を、一人一人が少しずつ
保っていくべきだと思うのです。
でも、こんなふうだから、学校や子どものことでも知らないことだらけ、
かなりぼうっとしたお母さん、と思われているのかなあ。

           事後報告      2002.10.27

さる10月21日、今年の初夏に起こった野良猫虐待事件の判決がありました。
ゴミ捨て場をうろついていた子猫を自宅に連れ帰り、エサを与えたあと、
バスタブの中で、耳を切り落とし、しっぽを切り落とし、最後に首を絞めて
殺したあと川に投げ捨てた犯人への判決でした。懲役6ヶ月執行猶予3年でした。
4時間にわたる犯行の一部始終を、インターネット上で画像入りで報告し続け、
「次はなにをする?」とネットを見る人に呼びかけ、実際何人かの人が
指示したりした、想像を絶する事件でした。たまたまそのサイトを見た人が
警察に通報し、動物愛護法違反で逮捕されたのです。
その後、その猫には「こげんた」という名前が付けられ、供養する人あり、
犯人への厳罰を求める署名あり、そういう運動はネット上では「Dear.こげんた」
というページで詳しく知ることができます。
その、残虐な行為を糾弾するページが、実際の犯行の映像を見ることのできる
報告のサイトへとつながっていました。小学校で動物愛護の授業で見ることなどを
ふまえ、学校等でのリンクにはプロテクトがかかっていました。が、
一般のパソコンからだと、「気の弱い方は見ないでください」という但し書きが
ついていたものの、誰でも閲覧可能だったのです。もちろん私は見ませんでした。
掲示板へは、犯人への怒りと同時に、そういう写真につながっていることへの
批判も数多く寄せられていました。
今日私が確認した限り、実際の写真へのリンクは削除されていました。
そのような報告に実名(Dear...ではイニシャルしか載っていません)や写真を載せ、
それを善意の人が悪意なしに見続けること自体、どこかおかしいと思います。
実際、判決では懲役6ヶ月の求刑に対し、「被告はインターネット上で
顔写真・家族のことなどを公開されており、社会的制裁を十分受けて
いると考えられる」ということで、執行猶予がついたのです。
「社会的制裁」というのは曖昧な表現ですが、誰が、どんな権利で、どのような
かたちで人を裁くのか、そして何のために裁判所があるのか、やはり今一度
考えてみる必要があるように思います。
私は、もちろん犯人の行為がとうてい許されるものとは思いません。
その上で、インターネットやマスコミは、罪を糾弾できても、その人や周囲の人を
必要以上におとしめてはいけないと思うのです。
被害者の周辺への心配りは当然のこと、犯人に対しても、難しいかもしれないけれど、
冷静な対応が必要です。それが犯罪者の、ではなく、人間の尊厳だと思います。


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